逆算思考の罪と罰

むかし、小学校の担任の先生からいきなり
「お前は常に、逆算で考えている。そういうのはよくない。勉強をなめてはいけない」
と言われて、ぎょっとしたことがある。

自分は意識的にしていたことではなかったので、最初はその意味がわからなかった。そこで他人の「逆算でない」思考とはどういうものなのか?を観察していくうち、だんだんと「逆算でない思考」(世間では、積み上げ思考と呼ぶらしい)と、「先生が言いたかったこと」がわかってきた。

例えば、何かを学ぶ必要があるとき、その学びに1から10の段階があるとする。
積み上げ思考の人は、1から10の順に、ひとつずつ抜け漏れなく学んでいこうとする。

それに対して自分は、まずその段階の全体像を把握した上で、

「これは、3と6と10だけ理解しとけば大丈夫だろ! たぶん!」

みたいに最短効率と思われるルートを見出し、そこだけを学ぶ。抜け漏れたところはぼんやりだけ理解したり、想像や類推で補完する。
僕は昔から、それを誰から言われたわけでもなくやっていた。そうじゃないとやる気が出ないのだ。

もちろん、学んでない奴が考えた最短ルートなので、「あ、これ結局2をやらないと6がわかんないな……」とか、「いらないと思ってたけど7も8も9も必要じゃん、学んでおけばよかった、失敗したな……」みたいなことは多々起こる。

しかしえらいもので、その思考をあらゆることに適応していくうち、最初の見立ての精度も上がってくる。そうするうち、超最短効率で学ぶスキルが身についてくるわけだ。

大人になってくるとビジネス書なんかも読んだりするようになり、そこには「ビジネスの現場では常に、逆算の思考を持て!」なんて書かれてたりもする。積み上げ思考では仕事で求められる速度には到底、追いつけないのだ。やっぱり逆算思考が最高だ。むしろその思考こそを「良効率思想」と名付けて、積み上げ思想は「悪効率思考」と名付けたいものだ。なんで僕の方が逆なんだ!

と、まぁ、私怨は置いておくとして。しかしこの歳になってくると、逆算思考の弊害にも気づいてくる。

「神は細部に宿る」とはよく言ったもので、まさに無駄と思えるような点にこそ、ものごとの重大なポイントが隠れていたりするのである。

例えば、逆算思考での学びを続けていると、どうしても歯抜けの知識になってしまい、知識を重ねていったときにそれが体系化されにくかったり、思い込みや間違った前提が多くなってしまう弊害がある。

これだと知識体系は、柱の数が足りない欠陥住宅みたいなもので、どこまでも高く積み上げていくことはできない。正確な知識を求められる場面では、とてもでないが役に立たない。

また、逆算思考の人は、積み上げ思考の人からすると「楽している、軽薄な人だ」と思われがちだ。これはけっこう普段の何気ない会話から見透かされており、その道の専門家が相手だったりすると、とてもじゃないが信頼は勝ち取れないだろう。

学校の先生が僕に言った「勉強をなめてはいけない」という言葉の真意も、どうやらこのあたりにあるらしいと、最近になってよく思う。

ああ、ちゃんと体系的に学んでおけばよかった……と思うことが年々、多くなってくる。軽薄な知識体系は軽薄な人格を生むのではないか……という不安に駆られることも、ままある。

だがしかし。私はフィクションを主戦場とするライターである。この逆算に次ぐ逆算によって構築された「歯抜けの知識体系」は、視点を変えれば「空想で満たされた独自の知識体系」でもあるわけだ。これは職業柄、たいへんに役に立つのである。

ITの発達によって、誰でもありとあらゆる情報に触れられるようになった昨今、これから本当に求められるのは「空想で満たされた独自の知識体系」なのではないだろうか?それを手に入れるためには、正確な知識を入れ過ぎてはダメだ。断片的な情報にとどめておき、その断片と断片を空想で埋めていくのだ。そうすることで、「理論的には絶対にたどり着けない、極めて独自性の高い知識体系」が完成する。

もし、「自分には個性がない……」とお悩みの方がいれば、答えは簡単。正しい知識のインプットをやめて、不正確な情報で脳内を満たしていきましょう。(その結果発生する大量の不都合について、責任は取りませんが)

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