感想を無理に言葉にしなくてもいいのではないか、という話

昔から、映画を見たり本を読んだりしても「おぉ〜」とか、「なるほど〜」しか言えない。
批評とか、いい感じの分析とか、できない。

そういう、いい感じの感想を言いたい欲みたいなのが昔はあった。自分だけの視点で、それをいい感じの文章にして読んだ人が「なるほど……!」となる文章を書いてみたいと常々、思っていた。

でも自分には向いていないようで正直、そういうのがあまり上手じゃない。

頑張って無理くり言葉にしようとしてみるけれど、書いたものが全然しっくりこない。
「なんか、それっぽい批評文を真似てるだけで、自分の感想はこれじゃないな……」という感じがして結局、消してしまう。

どうやったらいい感じの感想や批評が出るのだろうかと考えるうち、「そもそも、そういうのが書ける人は『批評的な視点』を維持しながら作品を見ているのではないか?」と思うようになった。

批評がうまい人は、映画を見ていても「批評的な視点」が常に作品と俯瞰的な距離を保ちながら存在しているのではないか。

自分は作品を見る時、「作品の中の視点」と一体になっているように思う。それが主人公の時もあるし、小説だと語り手の感情と一体になっていたりする。ただただ、巻き起こるドラマに翻弄されて、それを冷静に分析でしている余裕などない。だから、作品が終わったら「あぁ〜」とか「そうか……」みたいな心地よい疲れがあるだけで、批評にならない。さっきまで恐竜に追いかけられたり、タイムトラベル体験をしてた直後なわけで、批評なんてできるわけもない。

じゃあ、「批評的な視点」を保持したまま作品を見ればいいのか! と思ってやってみたりしようとしたこともあったけど、作品に入り込んでしまって「批評的な視点」を保持できない。

逆に、自分が入り込めない作品だと、ちょっと批評的に(というか批判的に)なって、「あの作品はさぁ……」みたいな言葉が出てきやすい気がする。でもそういうのは(自分も言われたくないし)わざわざ文章に起こそうとはしないけれど。

余談だけど、作品の「何が悪いのか」は、割と誰でも言語化しやすい気がする。でも、具体的に「どうやったら作品が良くなるのか」はなかなか言語化できないものだ。昔、知り合いの漫画家に「プロになりたかったら、いろんなヒット作品がどうして売れてるかを言語化する癖をつけたほうがいい」と言われて、なるほど……と思ったことがある。面白いし売れて当然だなぁと思う作品がなぜ売れたのかを、誰もが納得する形で言語化するのは意外と難しいものだ。

まぁ、そんなこんなでいい感じの感想を言うのはどうやら向いていなさそうだと気づき、早々に諦めてしまった。

けれど、最近になって(ただの負け惜しみかもしれないけれど)別に、そんなにうまいこと作品の感想を言葉にしなくてもいいんじゃないか。むしろ、綺麗に言語化できてしまうほうが危険なんじゃないか? と思うようになった。

言語化することで、感想を他人に共有しやすくなる。それを文章にしておけば、その時の感想をずっと残しておくこともできる。言語化がうまい人の感想を聞くと、自分が気づけなかった作品世界に目を開かされるような気持ちになって膝を打ったりすることだってある。

でも、言語化はどこまでいっても感想を完全に再現することはできない。

言語化はどこまでいっても「ニアリーイコール」なのだ。

どれだけ言語化がうまくても、それが「感想」と完全にイコールになることはない。
言語化して他人に伝わったことで満足してしまいがちだが、言語化を通して「もやもやした、言葉にどうしてもならない微妙な感情」を切り捨てたことで、「思考を単純化してスッキリした」気持ちになっているだけなのではないか?

感想の言語化には、自分の感情の細部ではなく、他人の感情を揺らすことに目を向けてしまうリスクがひそんでいるのだ。そもそも、「言語化したい」という感情は、「他人に伝えたい」という感情とほぼ同義なのではないか? うーん、それって……

……みたいなことをもんもんと考えていくうち、自分が考えていた「いい感じの感想を言って、他人を感心させたい」という気持ちって、けっこうな危うさを含んでいるのではないか、と思うようになった。図にすると、こういう感じだ。

作品の感想を伝えたいのではなく、「作品を利用して自分が言いたいことを言ってるだけ」の状態。これは悪気なく、知らず知らずやっていることもあるだろうが、けっこう危うさを含んだ行為だ。自分は思い込みも激しいので、いかにもやってしまいがちだ。

そんなこんなで、最近の自分はあまり感想を無理に言語化しなくてもいいのではないか、という考えに至った。

でも、自分が関わった作品の感想を読むのは大好きです。いつもありがとうございます。

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