戦略の失敗は戦術では取り返せない。ゆえに、プロットの失敗は設定や文章力では取り返せない。

戦争や経営を語るときに、「戦略と戦術」という概念がよく出てくる。

引用:http://hayagyoku.blog113.fc2.com/blog-entry-6376.html

これらにまつわる格言で、「戦略の失敗は戦術で補うことはできない」
というのがある。

そもそも向かうべき方向性が間違っていたら、障壁を乗り越える技術に長けていても意味をなさないのと同義である。戦略を策定し、戦術を立て、戦闘することで、勝利に導ける。一定の戦闘力が無ければ、実現できない戦術もあるだろうが、戦闘力だけを上げたところで、戦略と戦術が無ければ、勝機は見出せない。戦略はやはり上位概念として重要であることは間違いないだろう。

引用:https://x.gd/kJnu3

この考えは、シナリオ論でも同じことが言えるなぁ、と思うのである。

言うなれば、「プロットの失敗は、設定や文章力で取り返せない」

自分は、細部の設定よりも、プロット重視派だからこそ、強くそう思う。

自分は物語を作るとき、まずプロットから考える。このとき、設定や(当然だけど)細部の文章についてあまり考えない。なぜなら、細かいところを先に決めても、そもそもプロットが面白くないと、お話がどうやっても、面白くないものに仕上がるからである。

さっきの戦略論で言い換えると、こうなる。

そもそも、「プロット=読者を感動へ導くための方向」が間違っていたら、「読み進めさせる力=見事な描写力や面白い設定をつくる力」に長けていても意味をなさないのと同義である。プロットを吟味し、そこに設定を肉付けした上で執筆することで、読者をよりよい感動に導ける。一定の描写力が無ければ、実現できないプロットや設定もあるだろうが、文章力だけを上げたところで、良いプロットと設定が無ければ、真の感動はつくりだせない。プロットはやはり上位概念として重要であることは間違いないだろう。

みたいな感じである。

これまでも、プロットの添削やディレクションをすることがあった際に、プロットで退屈だったり凡庸な部分を指摘すると「ここは、しっかり文章や描写を書きこんで盛り上げるので!」みたいな返答が返ってくることが、ままある。そういうとき、自分も書き手としては「まぁ、熱量込めて描き込んだら、なんとかなるかな……」みたいに納得してしまいがちなのだが結局、上がってきたものをみて、そもそもプロットから練り直さないとどうしようもない、ということになる。
(実務経験がすくない人に多く、プロットを練り直すように説得しても「いいから書かせてくれ!」ということになりがち……)

これまでの経験で何百、何千とプロットを見てきたが、「プロットではいまいちだったけど実際にテキストレベルになると面白くなった」みたいな経験は、短めのギャグシナリオ以外では、一回もない。

実際、日本文学史に名前を刻んでいるような文豪でさえ、「文章力は美麗で壮大ですごいけどお話としては破綻してるなぁ」みたいなのは山ほどある。文章に惹きつけられて最後まで読んだけど、お話が尻切れトンボでがっかり、みたいなのも、ままある。

どれだけ文章力があっても、やっぱりお話としての強度が弱いと、読後感はよくならない。

数百文字程度のプロットだけで、何度読み返しても「この話、面白いなぁ」と感じるレベルになるまで、とにかくプロットを叩き続けた方がいい。その方が手戻りの工数も絶対に少ないし、そこが固まってしまえば、あとはそれをどれだけ色彩豊かに描けるかだけに集中できる。

とはいえ、細部を後回しにすると言うことは「プロットでは成立してるけど、実際に細部を書いていく段階で、軌道修正不可能な破綻に気づく」みたいなことは、常に起こり得る可能性をはらんでいる。毎回、書くたびにそうなったらどうしようと恐怖を感じながら進んでいくことになる。

だが、少なくとも今のところ自分はそれで大失敗したという経験はないので、このスタイルでやり続けている。だが、これは自分がフィクション領域のシナリオを扱うことが多くて、あとでいくらでも矛盾を回収できる設定を後付けしやすいから、というだけなのかもしれない。

史実に基づいて描かなくてはならない大河ドラマなどは、まずは最初にしっかりと設定の詰めをやるのかもしれないが、自分はそういうのは向いていなさそうだ……

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