久しぶりに、すごくいい本に出会ったのでブログを書きます。
ブッダという男
この本を私は、「あとがき」に書かれているようなアカハラ問題が、SNSでバズっていたために知った。
だが、私はただの読書好きでしかなく、アカハラの真偽のほどは関係者によって今後明らかになっていくだろう(と信じたい)こと、その(あまりにセンセーショナルな)アカハラ問題以上のインパクトをくれる必読の良書であるので、件の問題には触れないでおく。(が、仮に著者の清水さんの主張が全面的に正しいのなら許されないことだ、という個人的な義憤に駆られて書いているのも多分にある)
この本は、読書好きが絶対にぶつかる「仏教について体系的に読みたいけど何から読んだらいいかわからなくて挫折する」問題に明快な答えをくれる本である。
同じ悩みをぼんやり抱えてる人、絶対に読んでほしい。絶対にすっきりすること請け合いである。
自分は10代の頃から20年近くずっとこれにもやもやし続けており、寺に行ったり法話を聞いたり新たな仏教本を手に取るたびにそのもやもやがより一段と、もやもやもやもやしていた人間なので、同じようにもやついている人がいたら是非読んでほしいと思ってこれを書いている。
キリスト教とか西洋哲学だと、原典は明確で体系的な読書の縦糸と横糸があるのに。まじで仏教はどれから読んだらいいかわからない。(気合いで読み進めても余計に分からなくなる)
前者が赤煉瓦で舗装されたニューヨークのセントラルパークだとしたら、後者は富士の樹海だ。
本好きからすると「頻出中の頻出概念である仏教について、読書体系がよくわからん」のはめちゃくちゃストレスなのである。
なので特に、
- 「諸行無常」とか「無明」とか「煩悩」とか、重要ぽいワードはいくつか知ってるけど、論理的にどうつながるのか、よーわからん
- 現代だと信じようと思ってもキツすぎる神話的ファンタジー著述と、現代でもしっかり人生に活用できる教義部分がまぜこぜで、よーわからん
- 結局、「極楽浄土」ってあるってことでいいの? 悟ったらそれにいけるの? でも極楽に行きたくて悟るってそれ、煩悩で行動してるやん、よーわからん
- 「無我の境地」って「私」がないってことでいいの? でも輪廻転生したら動物とか別人になって生まれ変わるんだよね? それは「私」なの? よーわからん
- 結局、初期仏教はほとんど原典が残ってなくて、後世の人たちが熱意と努力で運用する中で空白箇所を「方便」的に足し重ねていって今に至るってことでいい? だからこれ読んだら概要はわかる、って本はないってこと? よーわからん
- でもあんまりこうやって批判的に意見したり思考したりするとバチがあたりそうでなんか不安、でもやっぱり知りたいし……よーわからん
みたいな印象を持っている人にぜひおすすめしたい。全部スッキリする。
おまけに、前述した「なんでこんなに仏教関連書籍は体系がよーわからんくなったのか」の解説もあるため、2重ですっきりするのである。(アカハラ問題もすっきりしてくれたら3重ですっきりだが)
これを読むことで、仏教という概念のツリー構造が見えてくる。
(さらに、ブッダがツリーの起点でないことも初めて知った。そういう大事なことをぼやかすから、余計に構造がわかりづらくなっていたのだなと……)
これまでの曖昧模糊とした仏教感が理路整然と整理されつつ、仏教世界に満ちている寓話や語りの多様性を打ち消すのではなく包含しながらも再評価する内容でもあり、非常によい読書体験だった。(できたら私の大好きな親鸞を中心に、同じように整理してほしい)
いろいろな発見があり、感想はたくさんあるのだけれど、読んでいて「仏教を批判的かつ体系的に思考することや、ブッダをひとりの人間として歴史的に位置付けるのって、ちょっと『バチあたり』じゃないのか」と思った自分を見つけたのは、意外な発見だった。(その抵抗感こそが、この本が対決している主題でもあるのだと思う)
自分が仏教徒であるのだなぁ(?)と強く意識するのは親族の葬式の時くらいと思っていたが、実はもっと根強く静かで透明な仏教観が自分の中に根を張っているのに気付かされた。それが、日々の生活の中で倫理観となって自分を守ってくれていたり、逆に思考を制限したりしているはずで、仏教は偉大であるという思いを新たにした。
2〜3時間ほどで読めるのでぜひおすすめです。