むかし、知人の漫画家と技術は個性足り得るか、みたいなことをえんえん議論した思い出がある。
僕は「技術は再現性があるもので、再現性があるものは本質的に模倣できるので個性足り得ない」みたいな主張で、相手は「技術をかけ合わせたり発明したりすることで独自性になり、それは十分個性と言える」みたいな主張だった気がする。
「個性」の定義もあやふやなままの議論だったし自分も言いたいことだけ言って満足みたいな感じだったので結論も覚えてないんだけど、今から考えてみるとどっちの言いたいこともなんとな~くわかる気がする。
自分は、未来永劫この世界でその人だけの表現といえるものを個性と定義してたし、相手は過去から現時点までの表現で存在してないものであれば個性と定義してたんだと思う。同時にそれは、お互いが創作していくうえで探し求め続けているものの違いからくる議論だった気がする。
未来永劫、自分だけの表現といえるものなんてあるだろうか?自分はあると思う。例えば日記なんてその最たる例だ。世界中で日記を書いている人は何億人いるかしれないけれど、全く同じ内容の日記が2つ生まれることはない。合宿とかで大勢がほとんど同じような体験をしたとしても、日記は少しずつ違ってるはずだ。
自分が定義してる「個性」はすごく狭義で、あんまり世の中の役に立つとは言えないものを指している気がする。その定義の個性を磨き上げて、商品にするのはかなり難しいだろうと思う。自分は、そういうものを大切にしたいと強く思っていたし、今もわりかし同じように考えている。
じゃあ自分が創作していくうえで個性だけを追い求めてきたかというと全くそんなことはない。むしろ技術を必死にかき集めてやりくりしてきた。
特に、お金をいただいてつくるときには特に技術を込めた。それはやはり技術がまず品質を安定化させ、納期に間に合うようにするため当然に求められるからなんだけど、自分が技術を求めたのは、技術を介入させることで、自分の尊厳を守りたかったから、という理由もあったように思う。
創作って自分の尊厳をさらけ出していく側面はどうしてもあって、つくったものが否定されるとそれはそれは傷つくものだ。だからこそ、致命傷にならないように技術を介入させ、批判に対して返す刀で切り替えせるようにしているのではないか。
プロとして生き延びるために技術を必死でかき集める。そうしていくうち、だんだん色んなものが技術でやりくりできるようになってきて、心を使わなくても作品が完成させられるようになってくる。
そして徐々に、身に着けた技術のせいで、本当に伝えるべきことや、創作の熱量が自分自身でわからなくなってくる、というようなことが起こってくる。技術だけでつくったものは、真に誰かの心を揺り動かすことはできない。
だからこそ、技術じゃない、熱のようなものを失わない、汚れさせないことはとっても重要だし、そういう作品をみると背筋が伸びて、尊く美しいなぁ、と思う。
インターネットの創作物は、割と技術偏重主義なところがあるけど、徐々に技術じゃないものの価値が見直されてくる時代が、そう遠からず来るんじゃないかと密かに思っている。(個人的な希望も込めて、だけど)