無明ということについて(は書きません)

無明について何かを書こうと思ったけれども、それこそが無明の言いなりになってしまってはいないかと、ふと思った。

多くの人の共感をよぶような生き方をしようとすることや、がんばって一生懸命に死のうとすることも無明だ。

伝えようとすることも無明だ。つまり無明について何かを書こうとする行為そのものが無明のはたらきだ。

じゃあこの文章は何について書かれたものなのか?


自分は小さい頃から競争が嫌いだ。負けることも勝つことも嫌いだ。だから、お話を書くことが好きなのかもしれない。お話には優劣はつけにくい。(つけようと思えばつけれるけど)

お話をつくることは世界に新しい意味を付与していく行為だ。凝り固まった意味や役割や既成概念から何かを解き放つ行為になったとき、本当の物語が始まる。本当の物語があるき出せば無明はたちどころに消えてなくなる……少なくとも物語の幕が閉じられるまでは。古い意味と新しい意味が入れ替わるその瞬間だけ、無明が入り込めない隙間ができる。なので新しい意味はそれほど重要ではない。その入れ替わる瞬間を追いかけていくことがむしろ重要だ。


情緒によって心のうちに自然が満ちてくると、無明は消えてなくなる。自然というのは木々があってきれいな空があってそれに囲まれていて……ということではない。諸行無常の変化を慈しんだり美しいなあとしみじみ思うところに自然が立ち上がってくる。そのうちに自ら然るべくしてあるものを感じ取れば自然で満ちてくる。

あるべきように生きる。五感で考える。言葉を捨てる。(お話をつくるときに言葉を捨てられるようになるのに十年かかった)言葉は常に情緒のあとを、とことこ追いかけてくるだけなのだ。


だから、過去の自分と未来の自分に宛てて書きさえすればいいのだ。そうすれば少し無明がやわらぐ。そもそも、それ以外に真の意味で書けることなど、無いのだし。

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